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 西田幾多郎博士の言われる意識に於いての「シネ・クワ・ノン」、必要十分条件とは。

 世界に於いて、日本だけが特殊性を発揮しています。

 神話的、宗教的に、西田哲学論理で日本人の意識を見れば、それは平等社会を生み出し、人間を肯定した「心」、「精神」で、お人好しであり、会話では主語が省かれます。

 しかし外国では、彼らの意識は、格差社会を生み出し、人間を否定した、「自我」、「Ego」の作りあげた格差社会、隷属社会で、自己主張が得意で、自己が、自我が優先し、会話には主語が含まれます。

 馬渕睦夫先生と篠原常一郎先生の対談で言われていますが、

【馬渕睦夫】マルクス主義者からディープステートに繋がる人物

 

(212) 【馬渕睦夫】マルクス主義者からディープステートに繋がる人物 - YouTube 

https://www.youtube.com/watch?v=7diYvdBmiuI 

 ユダヤ人が支配する世界共和国、つまり One World ですよね。彼らの発想はメシア、つまり終末論だとよく言われます。左派のユダヤ人の革命家を支援した人たちが欧米の金融資本家、つまり大金持ちだったとういことなんですね。これは全く矛盾しているわけですね。極貧の革命家と大金持ちが実は裏で繋がっている。日本人にはなかなか理解しにくいですよね。(中略)あれがユダヤ解放思想だということはどのマルクス主義、経済学者も、政治学者も歴史家も言わない。

 

 「極貧の革命家と大金持ちが実は裏で繋がっている」、「日本人にはなかなか理解しにくいですよね」と、馬渕睦夫先生と篠原常一郎先生がおっしゃっていますが、西田博士の論理で考えると繋がるのです。またこのことは世界が左傾化、共産化していることにも繋がります。

 じゃあ、どこで繋がるのかと言いますと、西田博士は彼らを論理的にまとめて「十八世紀的思想(カントと悟性概念)(私と対象界)(私欲)に基く共産的世界主義も(新・共産主義、ポリティカル・コレクトネス 馬淵睦夫)(グローバリズム)(私と対象界)(カントと悟性概念)(1724~1804)(帝国主義)(マルクスと物質、類))(1818~1883)(共産主義)(主人と奴隷)(私欲)此の原理(八紘為宇)(八紘一宇)に於て解消せられなければならない。 世界新秩序の原理」と、帝国主義も共産主義も同じ意識的、精神的構造であり、論理的に同じ構造を持っている、と言われています。どちらも私と対象界です。

僕はこの三人の先生に勉強させてもらいました。

また、この頁の著作権は放棄します。修理固成(つくりかためなせ)。浅井進三郎

 

 西田哲学「場所的論理と宗教的世界観」を読む、と20220623に上梓しました西田哲学「世界新秩序の原理」を読む、の再度の解説です。

 私と汝 の解説   

 

  西田幾多郎博士が「シネ・クワ・ノン」、意識に於いての「必要十分条件」と言われているところを解説します。

1-11 かかる矛盾的自己同一的に媒介者の自己(無)限定の中心というべきものが、多が一に、一が多に、変ずるもの(無の一般者)が変ぜられるもの(有の一般者)として、私のいわゆる場所的有絶対無の場所)(質料→動・無・静←形相)(意識)(世界的世界と考えられる。これにおいては、自己(私)が自己(汝)(他人)に対立するのである(5-13 内在的超越)〔1-9対象とならないもの(自己)が対象となる〕。自己(私と汝)が自己(NKZ6-370-5環境)に自己(日常の私)否定的に一であるのである。故に、それは自己自身(私・統一・汝)(無自身)(1-17場所自身)を表現するものであるのである。⇒

 

 変ずるもの(無の一般者)が変ぜられるもの(有の一般者)とは無即有で、西田博士の言われる「当為」、「定言命令」で、パウロの言葉で言えば「ロマ書4-17 無から有を呼び出される神」で、「ロマ書7―22神の律法」が私に見える形、理解できる形で現れる、と言うことす。対象界の、空間面の神と呼ぶところのもの、自らを律するもの、それが言葉になるところ、「自覚的立場」です。このことは心霊で、霊性で、主で、宗教体験で自己の根柢から、博士の言われる所与、仏教の阿頼耶識、パウロの教会、C・G・ユングの集合的無意識から、僕に言わせれば、僕たちが人間になる前の古い神経から出てくると思います。記憶も、当然ですが、記憶のある場所から出てきます。

 

 神の字を書いてください、と言われますと、「神の字」が頭に浮かびます。そして、神の字を見ながら、なぞって書きますが、いかがでしょうか。どんな方でも頭に浮かんだ字を見ながら書かれると思います。 

 それで、神の字が頭に浮かぶのは、何の働きもなく、勝手に表れるということではなくて、何かが神の字を表さなければ、頭に、空間面に浮かびません。いかがでしょうか、ご自分で神の字を思い浮かべてみてください。何かが働かなければ思い浮かびません。その何かを西田幾多郎博士は「汝」と言われました。僕の言葉で言えばもう一人の自分です。ヲシテ文献の「タマシヰ」でいえば「タマ」で、「欧米人は、人に心が二つあることを知らない。人とはどのようなものなのか分かっていない」と、言われた世界的な数学者岡潔博士の二つの心で言えば「無私の心」です〔#04二つの心(後編)〕。意識には顕在意識と潜在意識、意識と無意識の二つの心がありますが、「汝」や「もう一人の自分」は、無意識、潜在意識です。そして、「神の字を見せてくれる」もう一人の自分に、自分は何もできません。ただ、見せてくれるものを、見ているだけです。

 

 図式にすると、 

「自覚的立場」 → 顕在意識 意識 欲の領域 ヲシテ文献ではシヰ 岡潔博士はワライカワセミのようにうるさい私

自分→動・無・静←神の字

時間面→動・無・静←空間面

場所は、絶対無は、展開すると質料→動・無・静←形相、時間面→動・無・静←空間面になります。

「自己自身を表現するものの立場」 → 潜在意識 無意識 愛の領域 ヲシテ文献ではタマ 岡潔博士は無私の心

自分→動・無・静←もう一人の自分

時間面的自己限定→動・無・静←空間面的自己限定

時間面的形相限定→動・無・静←空間面的質料限定

私・非連続的連続・無媒介的媒介・汝

私・心の作用・心の内容・汝

 動・無・静、生・無・死は、非連続的連続と無媒介的媒介で、非連続的連続は、一コマ一コマを見る映画と同じで、無媒介的媒介は「ロマ書4-17無から有を呼びだされる神」で、心の作用(生と死)・心の内容(無即有)であり、協調、愛、慈悲、悲願を、「生かせたる 神話友達」を内蔵しています。

NKZ6-341-11  両界(作用界と対象界)(意識界と物質界)は同じ材料(質料と形相)(脳みそ)

から構成せられて居るのである。

 これらが、博士の言われる「自覚的立場」、顕在意識と「自己自身を表現するものの立場」、潜在意識で、「私と汝」、[意識と無意識」、「顕在意識と潜在意識」で「神の字」が頭に浮かびますが、それは汝が、もう一人の自分が空間面に映したものです。

 空間面に映し出された(時間面→動・無・静←空間面)(私→動・無・静←神の字)(私と神の字)(私と対象界)が博士の言われる「自覚的立場」で、私が、頭に、空間面に浮かんだ神の字(時間面的形相限定→動・無・静←空間面的質料限定)を認識、自覚(時間面→動・無・静←空間面)します。

 ゆえに統一された私と汝で、それをなぞって、私と対象界、神の字を書くことができます。ここで博士が言われるように「自己(私)が自己(汝)(他人)に対立するのである」、「私と汝」に、顕在意識と潜在意識に分かれます。 

  この一連の動作が「行為的自己」、私と汝(わたし)です。対象とならない者、「汝→わたし」が対象、「私とわたし」になります。私と汝で空間面を見ながら神の字を書きます。私と汝が統一されて自己になります。

 このことについて鈴木大拙博士は、

 此土(しど)(この世)において釈尊を中心とした会衆(えしゅ)(私)が浄土(彼岸)(汝)を見るが如く、彼土(ひど)(彼岸)の会衆(汝)によって此土(此岸)(私)が見られる。娑婆(私)が浄土を映し、浄土(汝)が娑婆を映す、明鏡相照す、これが浄土(汝)と娑婆(私)との連貫性あるいは一如性を示唆するものである、といっている(鈴木大拙『浄土系思想論』 拙著「場所」227頁

 と言われています。

 このことは私の対象界が汝→私になりますので、私が鏡に映っているように見えますので、「明鏡相照らす」になります。試してみてください、あなたに神の字を見せている者、それはあなたと言うことです。

 そして、難しい漢字だと、例えば「躊躇」なんかだと、多くの方は記憶にないから空間面に、対象界に、頭に浮かびません。ゆえに、書くことが出来ません。「自覚」が出来ません。

 神の字は記憶にありますが、博士の言われる「当為」は所与(生得的に備わっているもの→ア・プリオリ)、阿頼耶識にあり、汝が示したものを博士は当為と言われました。それが神話的、宗教的には私の本質、私そのものでしょうか。マルクスは、自覚的立場と、自己自身を表現するものの立場、私と汝、行為的直観ではなく、「自覚的立場」だけで、(時間面→動・無・静←空間面)に於いて、私と対象的に、マルクスと対象的に空間面に見えるものは「類」ですので、マルクスと類になり、マルクスと対象界、自我と対象界になり、これは「単なる自覚的立場」、知的直観で、私と対象界であり、行為的直観、私と汝ではありません。ゆえにマルクスが、ご自身で対象界との疎外を、類との疎外を認めました。

  意識には意識と無意識が、顕在意識と潜在意識があり、それが統一されて意識、自己となりますが、マルクスは意識、顕在意識だけです。もしも、マルクスが「観想」に於いて、宗教的体験において、もう一人のマルクスに、無意識に気付いていらっしゃったなら、今日のような世界情勢になっていないと思われます。そして、類は彼と対象界になりますので。マルクスが「目的」と言って、ご自身で「欲」の出てくるところ、私と対象界を論じていらっしゃいます。

 ゆえに、欲が、「私欲 西田」が共産主義、暴力革命につながり、武田邦彦先生がよく言われる「力ずくの文化」になりました。

 マルクスの『類的疎外』規定の検討 沢田幸治 神奈川大学学術機関リポジトリ37頁より

 疎外された労働(資本家・労働者)は人間から(一)自然(生産物)を疎外し、(二)彼自身を、換言すれば彼自身の能動的なはたらき、彼の(本来自由であるはずの)生活活動を疎外すること(資本家・労働者)(私と商品)によって、人間から類(生産物)(物質)を疎外する。それは人間にとって類生活(私と類、神)(精神的生活)を個人的生活の手段(対象)(疎外)(方法)(私と商品)たらしめる。第一にそれは類生活(私と類、神)と個人的生活(私と商品)を疎外し、そして第二にそれは後者(個人的生活)(私と商品)をそれだけとして切り離されたかたちで前者(私と類、神)の――同じようにそれの抽象的(主に於ける観想的)な、そして疎外されたかたち(私と対象界)での前者(私と類、神)(超越的内在 西田)の――目的(疎外ゆえそれを求める心)(私欲)(利己)(私と商品)(信仰)たらしめる。

 

  滝沢克己 八木誠一 「神はどこで見いだされるか」 三一書房154頁より

 自己ないし絶対者に関して極力対象的思惟を排除する西田哲学をとおしてバルト神学に出会った筆者(滝沢克己博士)は、むしろ反対に、カール・バルトがかれ自身の信ずる神にかんして、きっぱりと対象と言うことを憚らないと言うことに驚嘆してきた。

 まさにその点にこそ、この根本の事実にかかわるカール・バルトの認識もしくは思惟方法の類いない確かさを見るからである。しかし筆者の場合それは、人間的主体(疎外した類)(当為 西田)を「対象的存在」と言い切って動じないマルクスの心眼の鋭さ・明らかさ(『経哲草稿』)に対する驚嘆と、深く通ずるものなのだ。

 

 マルクスがご存じな処、環境、場は、西田幾多郎博士の言われる「自覚的立場」(時間面→動・無・静←空間面)で、「自己自身を表現するものの立場」、私と汝が、それに、そこにあるはずの協調や愛が、慈悲や悲願がありませんので、自我に偏った見方、一つの見方、私と対象界、マルクスと対象界、自我と対象界になり「単なる自覚的立場」が、疎外ゆえそれを求める心、「対象的存在 滝沢」を、対象界を希求する『目的』「私欲 西田」になりました。

 意識における顕在意識、意識、一つの世界と潜在意識、無意識、一つの世界のその潜在意識の根柢にあるのが阿頼耶識、所与です。マルクスは「自覚的立場」であり、マルクスと対象界が「類」ですので、自我と類になり、意識は顕在意識だけで、無意識、潜在意識は、私と汝はそこにはありません。それに、博士の言われる生と死、無と有がありませんので「NKZ6-386-10 非連続的連続・無媒介的媒介」が内蔵する協調、愛、慈悲、悲願もありません。

 どうしてそんなことが分かるのかと思われるのは、当然だと思いますが、人は皆、意識の根柢は、阿頼耶識は同じなのです、だから博士の書かれた論文が、宗教体験で、心霊で(西田)、霊性で(鈴木大拙)、主で(パウロ)所与にある当為に気づけば読めるようになります。幾つかの公案を解いた僕がそのいい例です。西田博士の論文は難しい、難解だと言われていますが、博士が公案を解きなさいと言われているにもかかわらず、

4-19 矛盾的自己同一の根柢に徹することを、見性というのである。そこには、深く背理の理というものが把握せられなければならない。禅宗にて公案というものは、これを会得せしむる手段にほかならない。拙著「場所」

 

それに挑戦しないあなたが博士の論文を難解にしています。公案を解けば、当為に、種子(しゅうじ)に気づけば、素人の僕が、難解と言われている西田博士の論文をそれなりに読んでいますし、マルクスの「類」も理解できます。難しいと言われているパウロの書簡もそれで読めます。例えば、パウロの言われるキリストは「神と被造物」です。だから西田博士が「内在的超越のキリスト→被造物→覚者」と言われたのです。

 

 そして自覚的立場と、自己自身を表現するものの立場が心の内容、無即有、「ロマ書4-17無から有を呼び出される神」と心の作用、生と死、一コマ一コマを見る映画と同じで、それを合わせて「世界」、「場所的有」、質料→動・無・静←形相、絶対無、「自己」です。そして、ここで対象とならない者が、自己が自己の対象となります。「無即有」無媒介的媒介、「生即死」非連続的連続を媒介として私と汝が、自分ともう一人の自分が、「欧米人は、人に心が二つあることを知らない。人とはどのようなものなのか分かっていない」と言われた、岡潔博士の笑いカワセミのようにうるさい私という心と、無私の心が、二つの心が、ヲシテ文献のシヰとタマが、顕在意識と潜在意識に、意識、無意識に於いて成立します。デカルトの我では、自己が自己の対象となりませんが、意識と無意識、顕在意識と潜在意識に分かれて、お互いに対象となりました。ゆえに、自己が自己に対立し、その統一が自己です。ここまで来たのなら、この後は心理学の分野であると思います。

⇒ しかして、我々(私と汝)が表現するもの(無)と表現せられるもの(有)との関係(超越的内在)、また更に私と汝とのごとき、表現するもの(汝)(無)(意志作用的有)(1-14作用界)と表現せられるもの(私)(1-14対象界)との関係(内在的超越)(私・非連続の連続・無媒介的媒介・汝)(私・非連続的連続・無媒介的媒介・自己表現面的限定)(時間面的自己限定→動・無・静←空間面的自己限定)を考える時、そこまで意識していないとしても、実はいつもかくのごとき自己自身(私と統一している汝)を表現するものの立場(私と汝)(時間面的自己限定→動・無・静←空間面的自己限定)「自己表現的個→動・無・静←自己表現面的限定」、自覚(見性、反省)的立場「時間面→動・無・静←空間面」(我と対象界、有)(2-7無が無自身に対して立つ)において(我考えるゆえに我が)考えているのである(只今)

 かかる立場「時間面→動・無・静←空間面」時間面的自己限定→動・無・静←空間面的自己限定)(時間面的形相限定→動・無・静←空間面的質料限定)(私・無媒介的媒介・非連続的連続・汝)(私・無媒介的媒介・非連続的連続・自己表現面的限定)(自己表現的個・無媒介的媒介・非連続的連続・自己表現面的限定)(自己表現的個→動・無・静←自己表現面的限定)「私と汝の統一」が、シネ・クワ・ノン(必要十分条件)であるのである。拙著「場所」41頁

 

 「我々(私と汝)が表現するもの(無)と表現せられるもの(有)との関係(超越的内在)」だけを取り上げると、それは先に述べましたように、「時間面→動・無・静←空間面」、自覚的立場であり、マルクスの論文を読むとわかりますが、時間面がマルクス、知的自己で空間面が類になります。マルクスが対照的に類が見ています(知的直観)ので、私と対象界になり、マルクスが自分とは対象的な汝(行為的直観)ではなく、対象界の、空間面の類を、知的自己が、自我が、マルクスが類を、マルクスと疎外されたかたちで見ています(知的直観)。これはパスカルと同じで、パスカルと貴いもの、ここでは神と呼ぶところのものだと思いますが、それを見ています。

 4-1 パスカルは、人は自然のもっとも弱きものたる葦にすぎない、しかし彼は考える葦である。彼を殺すには一滴の毒にて足りる、しかし全宇宙が彼を圧殺する(NKZ6-370-5環境的限定の意義)(物体界)(主の推選)とも、彼は死ぬること(ロマ書4-17無から有を呼び出される神)を知るが故に、彼を殺すもの(宗教的体験)(主の推選)(物体界)よりも貴い、といっている。かく人間の貴いと考えられるゆえんのものが(パスカルと貴いもの)(超越的内在)(マルクスと類)(私欲)(利己)、すなわち人間の惨(みじ)めなるゆえんである。人世の悲惨は実にここにあるのである。

 

 ゆえにマルクスは、神と呼ぶところのもの、類について、それは私から「疎外」されている、と言われたのです。マルクスにとって、疎外された「類」は、パスカルと同じように「欲が発生する」「対象的存在 滝沢」なのです。ですから「目的」になりました。そして、その場には、環境には愛が、協調や慈悲、それに悲願がありませんでした。

「私と汝とのごとき、表現するもの(汝)(無)(意志作用的有)(1-14作用界)と表現せられるもの(わたし)(有)(1-14対象界)との関係(内在的超越)(私・非連続の連続・無媒介的媒介・汝)(私・非連続的連続・無媒介的媒介・自己表現面的限定)(時間面的形相限定→動・無・静←空間面的質料限定)(2-8 仏あって衆生あり・衆生あって仏がある)(人はもともと仏である・神我らとともにいます)」は、「自覚的立場」、(時間面→動・無・静←空間面)と「自己自身を表現するものの立場」、意識と無意識、私と汝で、「質料→動・無・静←形相」、「絶対無」で、構成されています。 

 

 ですから、マルクス、私、「意識」が、何が彼に類を見せているのか、見せていてくれるのか、見せるのか、私と汝、もう一人のマルクス、「無意識」にその時に気づいたなら彼は、私は類である、と言われたと思います。類との疎外は出てきません。ゆえに唯物論は書かれなかったと思われます。ヘーゲルも自己疎外的精神と言わなくてすみます。

 だから、共産主義や暴力革命は出てきません。その場、死と生、絶対無、質料と形相の環境には愛や協調、慈悲に悲願が、「生かせたる 神話友達」がありますので、和を以って貴となすが出てきます。そして思いやりも出てきて、それらが八紘一宇となります。マルクスが汝に、もう一人のマルクスに、無意識に気付かれたなら八紘一宇の精神を論じられたのかもしれません。 

 

 西田幾多郎博士は「自己愛」のカントについても、

 十九世紀以来、世界は、帝国主義の時代(私欲)(私と対象界)たると共に、階級闘争の時代(対立)(無慈悲)(利己)(私欲)でもあった。共産主義と云うのは、全体主義(利己)的ではあるが、その原理は、何処までも十八世紀の個人的自覚(カント)(1724~1804)による抽象的世界理念(私と素材と援助)(私と対象界)の思想(グローバリズム)(共産的世界主義)(新・共産主義、ポリティカル・コレクトネス 馬淵睦夫)に基くものである。思想としては、十八世紀的思想(私と悟性概念)(私と対象界)(注12)の十九世紀的思想(マルクスと類)(1818~1883)(私と類)(私と対象界)に対する反抗とも見ることができる。帝国主義的思想(私と対象界)(私と他者)(私と人格神)(私欲)(民族自己主義)(主人と奴隷)と共に過去に属するものであろう(どちらも私と対象界です)。 

 また、

 我国の八紘為宇(八紘一宇)の理念とは、此の如きものであろう。畏(かしこ)くも万邦をしてその所を得せしめると宣(の)らせられる。聖旨(せいし)も此にあるかと恐察し奉る次第である。十八世紀的思想(カントと悟性概念)(私と対象界)(私欲)に基く共産的世界主義も(新・共産主義、ポリティカル・コレクトネス 馬淵睦夫)(グローバリズム)(私と対象界)(カントと悟性概念)(帝国主義)(マルクスと物質、類)(共産主義)(主人と奴隷)(私欲)、此の原理に於て解消せられなければならない。 世界新秩序の原理

 と言われています。

 マルクスと対象界、空間面にあるものは「類」であり、カントの対象界、空間面にあるものは、素材と援助→悟性概念です。そして、キリスト教の信者の対象界には人格神があります。私と対象界は、主観と客観になり、マルクスの言う対象界の「疎外された類」が「目的」となるところで、三者とも「私欲」の発生する場所です。

 最近、NHKBS1の「欲望の資本主義 2022夏特別編 メタバースの衝撃」で J・M・ケインズも知りましたが、ケインズに於いても、ケインズが、人々が見ている「月」、すなわち貨幣は欲望の対象であり(Wikipedia)、ここでもマルクスが、私と対象界の「類」を「目的」、欲と言ったように、ケインズも、彼の言われているようにケインズと月、貨幣、お金、私と対象界に於いて「私欲」、「欲望」が発生しました。

 そして、西洋の思考は神話的、宗教的にここまでしか知らないのです。「私と汝」を、顕在意識と潜在意識を、「二つの心 岡潔」を、「タマシヰ」を神話的、宗教的に知らないのです。私と対象界の時間面→動・無・静←空間面の立場だけで、「自覚的立場」だけで意識が成立しています。デカルトの「我」しか、「自我」しか知らないのが西洋の、外国の、日本以外の国の思考です。ですから、そこには慈悲、悲願、愛や協調がありません。西田博士の言われる「私欲」だけです。

  ユダヤ普遍主義と馬渕睦夫先生がよく言われるのは、その論理をとなえられた方、預言者が、彼が見た「もの」を、K・マルクスと同じように、マルクスの場合は「類」ですが、「類」をマルクスと同じように「疎外」、「対象的存在 滝沢克己」として見たからです。ですから、マルクスと同様にその場には慈悲や悲願愛や協調がありません。あるのは、それを手に入れようとする人間の「私欲 西田」、馬の眼の前にぶら下がったニンジンだけです。

 そして、「マルクスは,共産主義革命は資本主義経済の最も進んだ国で起こるものだとし,資本主義社会から社会主義社会そして共産主義社会と進むことは歴史的必然であると言った。 Wikipedia」そうですが、自己が自己の対象とならないデカルトやカント哲学ならそのような考えも出てくるかもしれませんが、顕在意識だけでは、デカルトの自我だけでは、私と対象界の時間面→動・無・静←空間面の自覚的立場だけでは、シネ・クワ・ノン、必要十分条件にはなりません。だから社会の、世界の共産化が「歴史的必然である」という偏った考えが出てきます。

 意識には顕在意識と潜在意識、意識と無意識、「自覚的立場」と「自己自身を表現するものの立場」が、時間面→動・無・静←空間面、時間面的形相限定→動・無・静←空間面的質量限定、私と汝が、「シネ・クワ・ノン、必要十分条件」があり、これを忘れては片手落ちです。

 目の前にニンジンをつるされた馬はそれを手に入れようと走り続け、マルクスの類、「対照的存在 滝沢克己」、目的、ケインズの月、貨幣を欲しがる馬や人しか出てきません。ですから私と対象界の時間面→動・無・静←空間面の「自覚的立場」だけでは、デカルト、カントの哲学では、私と対象界の人たちは、マルクス・ガブリエル教授の言われる通り、「欲望の奴隷」です。そこからいまだに抜け出していません。西田博士もそのところを、

 十八世紀的思想(カントと悟性概念)(私と対象界)(私欲)基く共産的世界主義も(新・共産主義、ポリティカル・コレクトネス 馬淵睦夫)(グローバリズム)(私と対象界)(カントと悟性概念)(1724~1804)(帝国主義)(マルクスと物質、類)(1818~1883)(共産主義)(主人と奴隷)(私欲)、此の原理(八紘一宇、八紘為宇)に於て解消せられなければならない。 世界新秩序の原理

​ と言われています。

​ ですから、最近、欧州やアメリカ、特にアメリカが、「共産的世界主義 西田」、「新・共産主義、ポリティカル・コレクトネス 馬淵睦夫」、グローバリズム、「左傾化」したようなことが言われていますが、このあたりの消息です。今のアメリカと中国を見れば判りますが、彼らの目的、目指す所は同じです。

 

 「マルクスにおける疎外論の発展(1)岩淵慶一」立正大学文学部論叢 を読んでみてください。

 134頁 それゆえ、(心霊、観想に於いて)真理の彼岸(神の創造)が消えうせた(超越的内在→私と類、神の外化、神との疎外)以上、さらに此岸(この世)(現世)の真理を確立することが、歴史の課題である人間の自己疎外(私に対する類、神)の神聖(彼岸の)な形態が(主に於ける観想に於いて)あばかれた以上(人は非創造物である)、神聖でない(此岸の)諸形態における自己疎外(資本家・労働者)をあばきだすことが、当面、歴史に奉仕する哲学の課題である。こうして天上の批判(疎外)(対象)は地上の批判(疎外)(対象)にかわり、宗教の批判は法の批判に、神学の批判は政治の批判にかわるのである。(宗教が、物質即精神なる神が、人間が、自律が、人格が否定されています)。

 

 マルクスが、「真理の彼岸(神の創造)が消えうせた」と言って類を、霊的世界が映し出した物質的世界を、私と汝ではなく、マルクスと対象的に論じています。ゆえに、人格神であるキリスト教も、信者と対象界、信者と人格神に、信者と人格神との疎外ゆえそれを求める心、「阿片である」と言われて否定されています。ですから私と対象界が、「私欲」がここで具現化して、「私の目的」になります。ここで『利己』が、所有の意識が、「自我」が、「主語」が「主観」が確立します。

 ゆえに、自らを律するものである愛、当為、阿頼耶識の内容、種子(しゅうじ)が退けられて、自律心が失われ、暴力革命が出てきました。これで、グローバリストの心が説明できます。ここにはキリスト教(パウロ)の言う神の祝福、福音はありません。愛、協調、慈悲、悲願もありません。あるのは「目的 マルクス」、「欲望の対象→貨幣 ケインズ」、「私欲 西田」だけです。

 (西田博士が「善(心の作用・心の内容)(宗教)とは一言にていえば人格の実現である」と言われていますが、マルクスとカントが心を占めている彼らの、心の作用と内容を見れば、やはり「グローバリスト」ですね)

 

 そして、K・マルクスが「真理の彼岸(神の創造)が消えうせた」と言いわれましたが、彼は顕在意識、自我だけで対象界を見ましたので、そのようになりましたが、顕在意識、意識と潜在意識、無意識で、私と汝で意識を、心を見ないと、意識に於いて「シネ・クワ・ノン」に、「必要十分条件」になりません。また、博士の言われる「終極の理念」がなんであるのか、馬渕睦夫先生の言われる「もともとある完璧な世界」が理解できません。

 私と汝の関係は非連続の連続、無媒介的媒介であり、そこには協調、愛、慈悲、悲願が、「生かせたる 神話友達」があります。ゆえにマルクスが観想された時、またはその後でも無意識に、類を見せているもう一人のマルクスに気付かれたなら、わたしは類であると言われると思います。ゆえに「真理の彼岸(神の創造)が消えうせた」なんて言われません。私と汝で心を見れば、「真理の彼岸(神の創造)」はあるのです。非連続的連続・無媒介的媒介には協調、愛、慈悲、悲願がありますので、共産主義や暴力革命は出てきません。出てくるのは和を以って貴となす、や思いやりが出てきて、それらが八紘一宇となります。神の創造はあるのです。

 

(神の創造物でありながら神の言いつけに、命令に、仏の知恵、神の意志に背いて勝手にリンゴを食べて、他人の賜物を食べて、どのようなことが善なのか、どのようなことが悪なのか知った、「創世記3ー22 善悪を知るもの」になったアダム、グローバリスト、共産的世界主義の方々、「新・共産主義、ポリティカル・コレクトネス 馬淵睦夫」の方々、あなた方も神の創造物です。「物質即精神なる神 西田」によって創られています。神の創造物が神の意志に、仏の知恵に、アダムのように背けば、人のものを勝手に食べれば、罪が発生します。ぜひご自分で作って、または稼いで、つまり働いて、ご自分の労働の賜物、報酬で食べてください。聖書に書かれているアダムと同じ過ちを犯さないでください。

 神仏の賜物は神話的、宗教的にあなた自身、当為、神の字です。このことは、次に出てくる加瀬英明先生とマンリオ・カデロ先生の対談で話された「神事」です。ここに差別はありません。公案を幾つか解けば、宗教的体験をすれば分かりますが、別の方法でもそれなりに理解できます。

 新嘗祭のところで、説明をしますが、グローバリスト、「共産的世界主義 世界新秩序の原理」の方も家庭菜園をされたらいかがでしょうか。家庭菜園は新嘗祭と同じです。人は「創世記3ー22 善悪を知るもの」ですからきっと自律心が、愛が育つと思います。

 馬渕睦夫先生に教えてもらいました。

敷島の やまと心を人とはば 朝日に匂う山ざくら花  本居宣長

花より明くる み吉野の春の曙見渡せば もろこし人も高麗人も 大和心になりぬべし 頼山陽

敷島の やまと心の雄々しさは ことある時ぞあらわれにける  明治天皇)。

 

 ですから、彼らは顕在意識と対象界、自我と対象界、顕在意識と類、顕在意識と物質、自我と人格神しか知らないのです。私欲の発生する、マルクスと対象界、マルクスと目的しか、パスカルと貴いものしか、カントと悟性概念しか、デカルトの自我しか、私と人格神しか知らないのです。神の祝福、愛、協調、慈悲、悲願を神話的に、宗教的に知らないのです。岡潔博士の二つの心、西田博士の私と汝、ヲシテ文献のシヰとタマ、顕在意識と潜在意識=阿頼耶識、意識と無意識=集合的無意識を知らないのです。それに、そこに、私と汝が、「NKZ6-386-10 非連続的連続と無媒介的媒介」が、心の作用と心の内容が蔵する愛、協調、慈悲、悲願についても、キリスト教(パウロ)が言う神の祝福、福音についても、神話的、宗教的に知らないのです。そして、このことがパウロの言われる「ロマ書11-15世の和解」が成し遂げられていない理由です。

 欲望の時代の哲学2020 マルクス ガブリエル NY思索ドキュメント PR動画で、カント哲学を基調とされているマルクス・ガブリエル教授が、私たちは自ら欲望の奴隷となった、とおっしゃっていましたが、拙著で述べましたように、マルクスやケインズのように、「欲」が発生する知的自己の知的直観、私と対象界、私→動・無・静←神の字、マルクスと類、ケインズ→動・無・静←月、時間面→動・無・静←空間面、自覚的立場だけでは、我が我の対象とならないデカルトの我だけでは、それに続くカントでは、「十八世紀的思想(カントと悟性概念)(私と対象界)(私欲)に基く共産的世界主義 世界新秩序の原理より」では、私たちはマルクス・ガブリエル教授の言われる通り、「欲望の奴隷」です。

 馬のように、目の前にニンジン(月、類)がぶら下がっていれば、それを手に入れようと走り続けます、が、そのニンジンがあなたの労働の報酬なら、それは宗教的に賜物、当為、神の字ですので、汝が、タマが、もう一人の自分が示したあなた自身ですから、ニンジンを手に入れる必要はありません。それが、神話的、宗教的にあなた自身、行為的自己の行為的直観で、自己自身を表現するものの立場、「生かせたる 神話友達」、協調、愛、慈悲悲願のある場所が示したものです。

 だから、エデンの園にいたアダムに、神の持ち物のリンゴを食べるなと言われたのです。もし、自分のものではないリンゴを食べれば、それは欲望への入り口で、際限がなくなるので、神は神の意志として、仏の知恵として、他人のリンゴを食べたアダムに労働を命じられたのです。つまり、リンゴが食べたかったら略奪するのではなく、自分で作りなさいと、マルクスの言う類、商品が、ケインズの言う月、貨幣、お金が欲しかったら収奪するのではなく働きなさいと諭されたのです。

 ここで人は「創世記3ー22 善悪を知るもの」になったのです。西田哲学で言えば、場所が場所自身を限定する、です。「自覚的立場」、私と対象界、作用界と対象界と、「自己自身を表現するものの立場」、私と汝、です。

 また神は、イブが、神の言いつけを最初に破って食べたのに、イブには働きなさいと言われませんでした。なぜかと言いますとイブは、「山の神 武田邦彦」だからです。一休さんが、女をば 法の御蔵と 云うぞ実(げ)に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む、と言われているように、それぞれの役割があるのです。

 ゆえにマルクスの言われる「目的」、ケインズの「月」が、「貨幣」が、『利己』が優先して、人間としてもあるはずの『愛』が『利他』が『協調、慈悲、悲願』が「欲」で退けられています。

 西田博士は「4-11絶対的当為(ロマ書7-20 神の律法、定言命令)(空間面的自己限定)(類、貨幣、ニンジン)の裏面(時間面的自己限定)には、絶対の愛(利他的)(共生)(慈悲)(悲願)(生かせたる 神話友達)がなければならない」と、神話的、宗教的な環境にあると、もちろん人としてもあると言われています。 

 

 だから、カントもマルクスも、ケインズやキリスト教徒も同じ人格、精神の論理、カント→動・無・静←悟性概念、マルクス→動・無・静←類、ケインズ→動・無・静←月、キリスト教徒→動・無・静←人格神となり、時間面→動・無・静←空間面の、自我の立場だけで意識が成立しています。ゆえに論理を語るには片手落ちで、岡潔博士が「欧米人は、人に心が二つあることを知らない。人とはどのようなものなのか分かっていない」と言われたように、目的に、私欲に、顕在意識に、「自我」に偏っていて不適正です。

 また、人間の活動においても、私と対象界、利己的自己だけでは、自我に偏った一つだけの見方では、人に備わっている無意識、潜在意識、阿頼耶識、集合的無意識の働き、当為がなくては、「神の意志」が、「仏の知恵」がなくては「神や仏に背く」ことになり、多くの場合、対立が生まれて争いの元になります。彼らは戦いに於いて、負けた民族を意のままにして、彼らの文化的遺産を破壊しました。だから、負ければ文化的遺産の継承もありません。博士が、 

「善(心の作用・心の内容)(生即死・無即有)(宗教)とは一言にていえば人格の実現である」 西田幾多郎 善の研究 岩波書店 202頁

 といわれているように、彼らの人格は、自我と対象界、マルクスと疎外された類、類との疎外ゆえに「私欲」が、利己が、「自我」が「Ego」が優先し、自己中心的、利己的で、神の意志に、仏の知恵である良心に、自らを律するものに背きます。

1-1人は何人も自己は良心を有(も)たないとはいわない。もし然(しか)いう人があらば、それは実に自己自身(NKZ6-368-9物質即精神なる神)を侮辱(ぶじょく)するものである。拙著「場所」

人は「創世記3ー22 善悪を知るもの」なのです。

 

 では、このような人格、自我が強くて自己中心的な人格でどのようなことが起きるのでしょうか。これで大国に起こっていることが殆ど説明できます。先ずは、会話に必ず「主語」が含まれます。日本人の会話には「主語」がありません。このことは私と汝のところ、「主客未分」のところで説明します。「自我が強くて自己中心的な人格」では、大いに自己主張があり、社会の安定が、秩序が乱れがちになり、社会的に不穏な、不安定な環境が生じます。ゆえに、災害時に略奪や強奪が起きる可能性があります。

 それに一国の中で多文化共生社会、文化的共存などは、国家情報法や国防動員法などで、国民の、人民の意志とは関係なく精神武装をさせる国があり、それにパウロの言われる「ロマ書11-15世の和解」が成立していませんので、今のところはあり得ません。必ず軋轢が生まれます。社会的秩序が不安定になり、平安が守れなくなります。しかし、国同士となればそれは八紘一宇です。馬渕睦夫先生に教えてもらった、2019年トランプ大統領が行われた「愛」のある国連演説と同じです。僕は、織田哲司さんの日本語訳を読みました。(「高田直樹さんによる日本語訳」、高田直樹、トランプで検索、葉巻の煙、全記事一覧へ http://bit.ly/375I7rt。彼はキリスト教の文化的遺産である「愛」を、しっかりと自分のものにされたのではないかと思われます。

 それに格差社会を助長します。外国における経営者の多くは、今まで述べましたように自己中心的な方、グローバリズムの方、西田幾多郎博士の言われる「共産的世界主義 世界新秩序の原理」の方が、「新・共産主義、ポリティカル・コレクトネス 馬淵睦夫」の方が多くて、会社の利益、富の分配は「利己的」に行われて、会社の経営者や株主に富の分配を優先します。

 武田邦彦先生がよく言われる「従業員のための会社」、「従業員(私)のための会社(汝)」ではないのです。ですから、格差がますます助長されます。彼らは、人としてあるはずの愛が欲で退けられていて、自己中心的です。それに、労働は、神の命令に背いてリンゴを食べてしまった、アダムに科せられた罰だそうです。だから、彼らは貶められた労働を敬遠して、経営者は働かなくても自己の報酬を優先して、別の人に働いてもらって報酬を得ようとするのですね。イエスの出現以前にも奴隷がいましたが、日本には大和の国が建国される以前、多分縄文時代のその前からもいません。

 キング牧師が言われた「どんな労働にも尊厳があります」マイケル・サンデル著「実力も運のうち」299頁早川書房、が無視されています。マルクス主義の中国も同じようなもので、文化的遺産の継承が行われておらず、大昔から働くことが嫌いなのでしょう。

 自然に対しても私と自然になり、欲が介在しますので、自然は人間の意に沿って改造するもの、立ち向かうもの、戦うものになります。ゆえに、虫の音が雑音に聞こえます。

 愛のない自我に偏った一つだけの見方では、欲が優先して、行き着くところは対立しかありません。

拙著「場所」217頁)5-11世界(一つの世界・一つの世界)(場所的有・場所的有)(人間)が自己自身(私・無媒介的媒介・非連続的連続・汝)(共同意識)(質料→動・無・静←形相)を喪失し、人間(NKZ6-368-9物質即精神なる神)が神(NKZ6-368-9物質即精神なる「人間」)(宗教)を忘れた時、人間はどこまでも個人的(単なる世界的世界、我、Ego、凡夫)(今のあなた)(非宗教)に、私欲的(2-1外を内に映す)(マルクス)(パスカル)(煩悩に作用された世界的世界、凡夫、Ego、利己)となる。その結果、世界(青い地球)は遊戯的か闘争的かとなる。すべてが乱世的となる。

 

 では、顕在意識と潜在意識の、私と汝の「自己」はどんな自己でしょうか。顕在意識と潜在意識があれば、意識と無意識で、私と汝で成り立っている自己は普通の、通常の人間の意識です。マルクスと対象界、自我と対象界では、自覚的自己、顕在意識、自我だけで、対象界に「欲」が働いていて、自己自身を表現するものの立場、潜在意識、無意識が、愛がありませんでした。これでは意識として片手落ちです。

 

 私と汝の「自己」は、先にも述べましたように鈴木大拙博士が言われた明鏡相照らすになります。私と汝、私とわたし、自覚的立場と自己自身を表現するものの立場になります。私の対象界がわたし、になり、西田博士の言われる主客未分になり、主観・客観が生じません。自我が発生しません。ゆえに、私と汝の統一が「自己」ですので会話に於いて主語が省かれ、自我の意識が希薄ですので、人の意見に耳をよく傾けてしまいまい、自己主張は控えます。

 また、対象界がもう一人の私、自分ですので、赤の他人を自己自身と思いがちになり、思いやりが出てきて、あの人がそんな悪いことをするはずがない、と言うことになり、お人好しになり、社会に安寧が行き渡り、平安になります。ですから、災害時の時でも略奪はおきません。

 ここらあたりが、武田邦彦先生が、利己的で自我意識が強い外国人の心が、お人好しの日本人と同じではないので、説明にご苦労していらっしゃるところです。

 また、自然に対しても、私と汝になり、そこには協調や愛が、「生かせたる 神話友達」がありますので、自然との共存を図ります。ですから、虫が鳴いていても景色になり、風流になります。

 図式にしますと、

「自覚的立場」 → 顕在意識 → 意識 → 欲の領域

マルクスと対象界、時間面→動・無・静←空間面、自分→動・無・静←神の字  

状況によっては「強欲」が発生する場所で、マルクス・ガブリエル教授の言われる、人が「欲望の奴隷」となるところです。

 場所が、絶対無が、質料→動・無・静←形相が、働くと、時間面的形相限定→動・無・静←空間面的質料限定に、自己自身を表現するものの立場なり、それが時間面→動・無・静←空間面に、自覚的立場なります。マルクスは前者が抜けてしまって後者だけです。ですからマルクスと対象界に、自我と対象界になり、そこには協調や愛、慈悲、悲願がありません。あるのは「目的」だけです。

「自己自身を表現するものの立場」 → 潜在意識 → 無意識 → 無私の心 → タマ → 愛の領域 

私と汝、自分→動・無・静←もう一人の自分

時間面的自己限定→動・無・静←空間面的自己限定

時間面的形相限定→動・無・静←空間面的質料限定。

動・無・静、生・無・死は非連続的連続・無媒介的媒介であり、愛と協調、「生かせたる 神話友達」、それに慈悲と悲願を、心霊、宗教体験に於ける神の祝福、福音を内蔵します。

 私と汝を、行為的直観を解説しますと、

 自己自身を表現するものの立場、である「時間面的形相限定→動・無・静←空間面的質料限定」の「時間面的形相限定」は、時間面に自己を、形相を限定しますから「質料」に、私になり「時間面」で、「空間面的質料限定」は、空間面に自己を、質料を限定しますので「形相」に、汝になり「空間面」です。

 博士はこのことについて「2-8私は仏あって衆生あり(時間面的自己→形相限定→質料)、衆生あって仏があるという(空間面的自己→質料限定→形相)」と言われています 拙著「場所」。また、人はもともと仏であると、神我らとともにいます、も同じことです。

 

 ゆえに、時間面→生・無・死←空間面や、質料→動・無・静←形相の自覚的立場になり、これらが絶対無の働きになります。

 逆限定、逆対応、それに純粋経験は、場所が場所自身を限定するにあります。

場所(絶対無)が場所自身(質料→動・無・静←形相)を限定(時間面的形相限定→動・無・静←空間面的質料限定)(私と汝)(質料→動・無・静←形相、時間面→生・無・死←空間面)します。これが、逆限定、逆対応、純粋経験です。

 博士は「5-9 絶対とは対を絶するものではない。拙著 場所」と言われています。

 因みに、絶対矛盾的自己同一は、絶対(対を絶するものではない)(質料と形相)矛盾(生と死)(動と静)的自己(私と汝)(意識と無意識)同一(統一)(自己)になります。

 

 僕は、「逆限定、逆対応」は拙著を読んでいただければ分かりますので、見つけていただきたかったですが、安倍晋三首相の訃報に接し、もう見つけていただくだけの時間的余裕がないと判断しましたので説明してみました。

 そして、ここが、意識と無意識とで、人として成り立つ所で、何かの圧力で、または、神話的に、宗教的に、人間的に愛を知らないと、「自覚的立場」に、自我に偏ってしまうと「強欲」に、マルクス・ガブリエル教授の言われる、人が「欲望の奴隷」になるところです。

 愛、協調、慈悲、悲願、「生かせたる 神話友達」、神の祝福、福音を蔵する「自己自身を表現するものの立場」、思いやりが生まれる私と汝に心が向かえば、釈迦やイエスの心に近づきます。馬渕睦夫先生は今ここにいらっしゃいます。

 キリスト教では、労働は、神の言いつけに背いたアダムに、神が彼に与えた罰だそうですが、⁑

 (僕の理解です。蛇にそそのかされて、神の言いつけに、命令に、神の意志に、仏の知恵に背いて自分の報酬ではない、神の賜物ではないリンゴを食べてしまった方、共産的世界主義の方々、「新・共産主義、ポリティカル・コレクトネス 馬淵睦夫」の方々、グローバリストの方々、それは神様がそんなことはしてはいけないよと言われたと思います。もしリンゴが食べたかったら働きなさいと、働いてリンゴを作りなさい、と言われたと思います。しかし、イヴには神は、働きなさい、と言われませんでした。なぜかと言いますと、イヴは山の神、権威(武田邦彦)でアダムは派遣社員、権力(武田邦彦)であるからです。

 WEBの説明で、神の命令に背いてリンゴを食べてしまったことによって「原罪」が生まれたと言われていますが、原罪、「欲」は人間、生得的に備わっています。だからマルクスが観想における類に対して、疎外ゆえそれを希求する対象、「目的」と言ったのです)。

 

 ⁑ あなたが働いて得た報酬は、神話的、宗教的には、もう一人の自分が、汝(会社)が映した、当為(報酬)(神の字)と同じで、時間面→動・無・静←空間面 と 私→時間面的形相限定→動・無・静←空間面的質料限定←汝であり、愛や協調、「生かせたる 神話友達」がキリスト教(パウロ)的に言えば神の祝福、福音があなたの労働にあります。ゆえに、従業員(私)のための会社(汝)(神の字)が成立します。ここでは公平、万人平等が、愛や思いやりが働きます。

 そして、私と汝に、自分ともう一人の自分にならなければ、神の字が書けませんし、報酬も得られません。神の祝福もありません。愛のない時間面と対象界の、顕在意識だけの、自我だけのグローバリズムの方々、利権主義の方々、共産的世界主義の方々、「新・共産主義、ポリティカル・コレクトネス 馬淵睦夫」の方々も、額に汗を滲ませて働けば、それはナショナリズムで(八紘為宇、八紘一宇)、神の祝福、福音が当然そこにあります。あなたが働けば、私と汝である、あなたの対象界の類が、もう一人のあなた自身の報酬(神の字)になりますので、それがあなた自身、私と汝ですので、そこには愛、協調、慈悲、悲願が、和を以て貴しとなす、がありますから、思いやりもでてきます。

 

 陛下は田植えをされ、稲刈りもされます。

 次のことは僕の理解ですが、宮中の行事に、新嘗祭(にいなめさい)があるそうです。

 陛下がその年に収穫された穀物を神に供えて感謝し、これを神からの賜物(パスカルと貴いもの)(当為)としてご自身が食(しょく)される儀式があるそうですが、陛下のお働きが、労働が、汝の限定が穀物(当為)となり陛下がそれを、賜物を食されることは、賜物、当為と、自らを律するものと、定言命令と、「ロマ書7―22 神の律法」と一つとなるということで、私と汝の統一、ヲシテ文献のシヰとタマ、「タマシヰ」になられると言うことであり、愛、協調、悲願、慈悲を、「思いやり」を、陛下が新嘗祭で、儀式で体現していらっしゃる、神とともにある、キリスト教(パウロ)的に言えば神の祝福、福音をうける、天上の世界、高天原の世界と地上の世界、人間の世界を賜物、当為で結ばれる、尊い儀式であると思いました。

 キング牧師の言われた「労働の尊厳」を勉強した時、僕は、勤労は義務だと思いましたが、勤労は、人として当然行われる当たり前のことで、神とともにある、と言うことで、どんなことでも、こちらが決めるのではなく、向こうが言うのですね。

 ですから、労働は、協調、愛、慈悲、悲願、「生かせたる 神話友達」にあり、神事です。正規社員は既得権だそうですが、神事に既得権、既得権益はありません。すべて平等です。

 神道が世界を救う マンリオ・カデロ  加瀬英明  勉誠出版 166頁

カデロ  刀鍛冶というと、千葉県の無形文化財の保持者である松田次泰刀匠の仕事場をたずねたことがありますが、作業場に神社でみられる注連縄が張ってあって、神域となっていました。

 作業がそのまま神事なのですね。労働が忌まれることなく、神とともにあるのですね。

  そして新嘗祭は 馬渕睦夫先生がよく言われる、我々が太古の昔から受け継いできた「もともとある完璧な世界」を、先生が良く論じられる「かんながらの道」、随神の道 惟神の道を、西田博士が人間世界の「終極の理念 世界新秩序の原理」と言われていることを、儀式に於いて陛下が余すところなく体現されていらっしゃる、と言うことで、これに於いて、この「場所」が日本の国体に写され、権威と権力を分離した「国家」←「国家・国民」になります。日本の国体を神話的、宗教的に支える儀式なのです。https://www.youtube.com/watch?v=ibzRiw-ZlqY の『【馬渕睦夫】実は今世界が本当に欲しいのは日本の●●です【ひとりがたり/まとめ】』を拝聴していたら、僕は目に涙がにじんできて、心の中では先生に敬礼していました。すばらしい講演です。

5-14 国家とは、此土において浄土を映すものでなければならない。拙著「場所」

 

 ゆえに、僕はこのお二人に同意します。また、僕は、神谷宗幣先生の参政党に、全く関係はありませんが、神谷宗幣先生の言われることの実践には困難が付きまとうと思いますが、ついていこうと、この参政党に自分ができることはしようと思っています。

 もし参政党が第一政党に、政権を担うような政党になれば、日本は、われわれのご先祖様が護ってこられた習慣を、例えば商売繁盛を願う大黒様と恵比寿様、ウシハクとシラスを、格差社会ではなく平等社会を、日本の国体を、和を以て貴しとなすの、八紘一宇、八紘為宇の精神を受け継いでいける日常になると思います。西田博士は「世界新秩序の原理」の後半で次のように述べていらっしゃいます。僕も全面的に同意します。

 我国の国体の精華が右の如くなるを以て、世界的世界(意識)(人格)(理性)形成主義とは、我国家の主体性を失うことではない。これこそ己を空うして他を包む我国特有の主体的原理である(和を以って貴しとなす→思いやり、協調、愛、慈悲、悲願 ←非連続の連続・無媒介的媒介が内蔵します)(それぞれの役割を有つ)。之によって立つことは、何処までも我国体の精華を世界に発揮することである。

 今日の世界史的課題の解決(ロマ書11-15世の和解)(神話の下に置かれていない)(世界状勢は世界が何処までも一とならざるべからざる。これらの解決)我国体の原理から与えられると云ってよい(心より同意します)(一日でも早く、気づかれることを願うばかりです)。英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚(なら)うに至るであろう(心から願うばかりです)(もし、そのようになれば「ロマ書11-15世の和解」が始まります)(「世の和解」が成し遂げられたなら、バチカンがパウロの戴冠式を執り行われると思います)(時が経てば、民度が、YouTubeの皆さんがよく言われる晴れやかな、穏やかな、正直な江戸時代の民度になると思います)。

 僕に言わせれば、日本では神話的、宗教的に太古の昔から 日常の生活の中に、慣習として組み込まれていて、僕たちは神話的、宗教的な理想郷に住んでいます。しかし、戦後、この事に全く気付いていなくて(僕も知りませんでしたが)、宗教的に私と汝を知らない、顕在意識と潜在意識を知らない、顕在意識、自我→私と対象界しか知らない、私と対象界が生み出す「私欲」を含有し、社会的格差や、従属関係が発生する外国の思想(温暖化など)に振り回されています。「その結果、世界(青い地球)は遊戯的か闘争的かとなる。すべてが乱世的とな」ります(拙著「場所」217頁)。

 また、先の戦争で日本はアメリカの属国になってしまいました。国益を損なう属国から、国益を守り、産み出す独立国になるべきです。

​ 我々(私と汝 西田)は神の創造物でありますが、我々(私と汝 西田)の自我(私 西田)だけでは神や仏の意に添いません。アダムと同じ過ちをしてしまいます。宗教的体験で、「主 パウロ」で、「観想 マルクス」で、「心霊 西田」で、「霊性 大拙」で、自分ともう一人の自分に、私と汝に、顕在意識と潜在意識に、意識と無意識に気づくべきであると思います。そして、この気づきでパウロの言われる「ロマ書11-15世の和解」を成し遂げることが出来ます。

 

 而して斯く歴史的地盤(人はもともと仏である)から構成せられた特殊的世界(パウロが語る物語を聞くことが出来る耳を有った人たちとその仲間)(シャーマンとその仲間)(神話を語る主の僕とその仲間)が結合して、全世界(人類)が一つの世界的世界(意識)(人格)(釈迦)(イエス)に構成せられる〔世界的世界(人格)の建築者〕のである。かかる世界的世界(意識)に於ては、各国家民族が各自の個性的(個と個)(私と汝)な歴史的生命(創造物として)に生きると共に、それぞれの世界史的使命(ノエマ・ノエシス)(心の内容・心の作用)(和を以って貴しとなす)(知恵)を以て一つの世界的世界(意識)(人格)に結合する(私と汝の統一)(我々)(神話の下に置かれる)(国家・国民)(天皇制)のである。これは人間の歴史(八八、百八)(創造物)的発展の終極の理念であり、而もこれが今日の世界大戦によって要求せられる世界(場所的有)(自己)(心の発展)(人格形成)新秩序の原理でなければならない。

 我国の八紘為宇(八紘一宇)の理念とは、此の如きものであろう。畏(かしこ)くも万邦をしてその所を得せしめると宣(の)らせられる。聖旨(せいし)も此にあるかと恐察し奉る次第である。  世界新秩序の原理より

 「西村(恵信) そう、もう三十年らい、久松(真一)先生からずっとね、禅はこれしか言わないんだぜ。(あなたが思っているような)神なんてないんだぜ。ね、お前の手をあげたり足を動かしたりするところにしか真如(神と呼ぶところのもの)はないよって、仕込まれたんですよ。それが最近、こういうところに出入りするようになって。」南山大学東西宗教研究 講演(三)カール・バルト神学について 滝沢克己 48頁 「協調」 同 48頁

 が脳裏に浮かびます。

 また、家庭菜園なんかもそうです。ご自分で、汗水垂らして菜園に手を入れて、収穫されたもの、神からの賜物を、報酬を、当為をご自分で頂くのでしょう。新嘗祭と同じです。でも、家庭菜園なんかめんどくさい、食料品店で買った方が早いと言われる方もあると思いますが、お金があなたの働いた報酬であれば、新嘗祭と同じになりますが、そうでなかったなら、そこには天上の世界と地上の世界を媒介する「神からの賜物」、当為、報酬、「ロマ書7―22 神の律法」がありませんので高天原と地上世界を結び付けることが出来なくなり、新嘗祭にはなりません。

 

 商いでも同じようなことが言えます。 

 「渋沢栄一著 論語と算盤(ソロバン)」は商いの手引書だそうですが、石平先生が、論語は愛である、と言われていましたので書き換えると「愛と商い」になります。だから、愛が介在していますので、ナショナリズム(八紘為宇、八紘一宇)になります。これで、幕末の頃に、日本へ来た外国人や宣教師が記した日本人の心の説明が出来ます。また、「利己と算盤」は、「欲と商い」はグローバリズム、「共産的世界主義 世界新秩序の原理」、「新・共産主義、ポリティカル・コレクトネス 馬淵睦夫」で、何処の国の人になるのでしょうか。日本にもいらっしゃるようです。

 またこのことは、日本神話に出てくる大国主命、ウシハクと天照大神、シラスになります。

 ウシハクである大国主命が転じて、金運の神、大黒様になり、シラスである天照大神が転じて事代主、言知主で、また転じて、仏の知恵の神、恵比寿様になります。「目的 マルクス」のために手段を選ばず、「生き馬の目を抜く世界」が大黒様で、顕在意識だけでは、デカルトの我、自我だけではグローバリズムになり、「目的 マルクス」のために手段を選ぶ、「お人好しが通る世界」が大黒様と恵比寿様、顕在意識と潜在意識に、西田博士の私と汝になり、ナショナリズムなります。恵比寿様で心を整えて大黒様に金運を願う、この二柱の神は商売繁盛の神様です。

  そして、ウシハクである大国主命、大黒様、グローバリズム、つまりデカルトの我、自我、知的自己、顕在意識だけでは「生き馬の目を抜く世界」が、「欲望の奴隷」が創り出され、また、ウシハクである大国主命、大黒様と、シラスである天照大神、恵比寿様とで、顕在意識と潜在意識、意識と無意識、自覚的立場と自己自身を表現するものの立場、行為的自己、私と汝、でナショナリズムの「思いやりの世界」が、「お人好しが通る世界」が創造されます。日本神話の中で語られた「国譲りの物語」、大国主命が国を天照大神に譲ってくださって、私と汝が統一されて、ウシハクとシラスが統一されてよかったですね。西田博士の言葉で言えば絶対矛盾的自己同一です。

 これで、西田幾多郎博士の言われる「シネ・クワ・ノン」、必要十分条件が満たされ、人の心が成立しました。人は「創世記3ー22 善悪を知るもの」なのです。

 マルクス・ガブリエル教授の言われる「欲望の奴隷」とは、

5-11 世界(一つの世界・一つの世界)(場所的有・場所的有)(人間)が自己自身(私・無媒介的媒介・非連続的連続・汝)(共同意識)(質料→動・無・静←形相)を喪失し、人間(NKZ6-368-9物質即精神なる神)が神(NKZ6-368-9物質即精神なる「人間」)(宗教)を忘れた時、人間はどこまでも個人(単なる世界的世界、我、ego、凡夫)(今のあなた)(非宗教)的に、私欲(2-1外を内に映す)(マルクス)(パスカル)(煩悩に作用された世界的世界、凡夫、ego、利己)となる。その結果、世界(青い地球)は遊戯的か闘争的かとなる。すべてが乱世的となる。(中国や韓国の方は宗教、文化の継承がありません)。(拙著「場所」217頁)

 日本にはいろんな神さまがいらっしゃいます。また、ロ―マ人への手紙第一章、「キリスト・イエスの僕」は、神々の僕、と言うことで、多神教です。そして西田幾多郎博士が言われる「内在的超越のキリスト」は、パウロに於いては「キリスト」は「神と被造物」ですので、「内在的超越の被造物」になり、ここでは覚者になります。

 そして、渋沢栄一著「論語と算盤」は、「愛と商い」は、人間が生得的に、ア・プリオリ的に持っている「愛と欲」ですので、日本神話の大黒様と恵比寿様や「論語と算盤」で、「愛と欲」との整合性、均衡に於いて商いをしなさいと言う意味になると思います。ここで仏の知恵、神の意志が発揮されると思います。つまり、「仏の知恵」、「神の意志」は、自らを律するもの、「良心」です。人は「創世記3ー22 善悪を知るもの」なのです。

1-1人は何人も自己は良心を有(も)たないとはいわない。もし然(しか)いう人があらば、それは実に自己自身(NKZ6-368-9物質即精神なる神)を侮辱(ぶじょく)するものである。拙著「場所」

 武田邦彦先生がよく言われる「お天道様が見ているよ」とよく似ています。また日本は「神様も驚くくらいの立派な国だった 武田邦彦」し、これからもそうです。

 

 

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